魅入られて 4-2-1 酵素

2節 酵素

 

「ねぇレイ、もう少し聞いてもいいかな?」

『何? ああ、当分テンテからは離れないよ』

 

「くそっ… じゃあ幽霊さんには実体はないの? 幻覚幻聴全部が自分の脳の産物なの」

『さあ、テンテは自分がどういう生物だかわかってるの?』

「ははは、よく知らんなぁ…」

 

『レイたちも一緒よ。ウイルスってね、病原になるものはよく調べられてるけど、幽霊を見たり感じたりするのは病気じゃないワケだから、誰も調べる人は居ないわ』

「ふむふむ」

『ヒトの十万種のタンパク質だってさ、機能が解ってるのはほんの一部。テンテの解釈だと、レイは【恐怖を煽るタンパク質を大幅に増産する作用を持つ】んでしょ?』

「そゆこと」

 

『まず恐怖タンパク質の設計図をもとに恐怖RNAを逆翻訳する。今度はその恐怖RNAを大量コピー、大量翻訳して通常の数千倍の恐怖タンパクを合成させるのね』

「それで勝手に幻聴幻覚を感じてしまうんだ」

『そうよ、レイは特に何もしないわ。でも他のタイプの幽霊もいるとは思うけど』


「なろほど、そうだよね。

ところで… セントラルドグマでは、DNAからRNAへの転写、RNAからアミノ酸配列への翻訳はどの生物でも共通で、一方向にしか進まないはずの原則だったね」 

『コウモリに憑いてた頃は知らなかったわ。動物に憑いても、恐怖の対象は天敵だもん。まあはっきり言えば、どうでも良かったからさ…』

「ふふ、あとになってセントラルドグマには幾つかの例外が見つかったんだ。例えばヒトエイズウイルス(HIV)みたいに逆転写酵素(Reverse Transcriptase)を持ち、ウイルスRNAをDNA化してヒト細胞に組み込むようなウイルスとか、ね」

 

『そっか、その論法だとレイが逆翻訳酵素を持っててもおかしくないワケね、たしかに…』

「そして、逆転写酵素も一緒に持ってたっておかしくない… ちょっと強引だけどね」

『あ、そうだよね』

「でもどこにも証拠は無いんだな、これが…。私の直感でしかない」

『でもあやふやだった部分があたしにも、ちょっと見えてきた気がするわ』

そう呟いてからちょっと改まり、こちらに向き直って軽く頭を下げてからコトバを続けた。

 

『良かった、ありがとう。テンテと話してみた甲斐があったよ』

私は何と返したら良いのか迷って、結局茫然としていた。

 

レイはさらに続けた。

 『調べてよ、レイのために。アタシだって自分のルーツを知りたいわ』

「おーまいがっ!

私は職場も実験器具も、たぶん退職金も失うことになるんだよ、レイ」

『あははは、アタシも本分を忘れてないわ。じわじわ苦しんで生きる? みっちり苦しんで逝く? テンテを独占したいの。だから死なないで、いっぱい苦しんでほしいの』

 

「ちょっと待って… それって実質一緒の気がするけどな」

『う、よくわかったわね。うふふ』

「たぶん… 喜怒哀楽のギャップの大きさだろ、レイの狙いは。つまり心の動揺の差だな」

『さあ、どうかしら?』

レイは笑ってみせた。

 

 ふと気付けば、もう日は高かった。非現実感と奇妙な現実感が、不意に私の中でひとつになった。とても夢とは思えなかった… しかし、ステキな胸の…良いオンナだったな。

 

 窓の外ではイソヒヨドリが美しい声で、詩を読むようにさえずっている。

 

 ここで改めて、「生物体内での遺伝情報発現の手順」を確認 しておきたい。

 

 私は一応生物の教師だ(った)し、レイはおそらく私の脳内をのぞきながら会話しているので、前置きをあまり必要とせずに会話が成立している。

 

 しかしこの怪奇譚の流れの本質を掴むためには、一度きちんと筋道を明らかにしておいた方が良いように思えるのだ。理科的な常識のある方々には不満かもしれないが、ここはひとつお付き合いいただこうかと思っている。そう言いつつ、自分の脳内を整理するためには欠かせない重要なカギを握る急所なのだ。

 

 通常、生物は

 1⃣ 外界と内部を隔てる境界(細胞膜など)を持ち

 2⃣ 独自の代謝 (化学反応…合成【同化】と分解【異化】)を行い

 3⃣ 生殖(分裂や受精など)によって子孫を遺す。

 

という共通の特徴を持つ。

 その子孫に渡される遺伝情報が「遺伝子」である。ウイルスは1⃣と2⃣の条件を満たさないので、生物とは言えない。いわば、他の細胞を乗っ取って3⃣を行うことができる「特異な化学物質」である。

 そしてウイルスは… 多少の例外はあるものの、普通はタンパク質とDNAまたはRNAだけから構成されている。

 

 3⃣によって子孫に引き継がれるのが「遺伝情報」である。遺伝情報を構成しているのは多数の「遺伝子」である。

 おおまかにだが、この辺までは問題なく飲み込んでいただけるだろうか。

 

 ここからはやや専門的な話になる。面倒なら読み飛ばしてしまっても、本論には直接の影響はないかも知れないが、ディテールのニュアンスは伝わりにくいかもしれない。

 

 さて、「遺伝情報」の正体は何か? 現代科学は明確な答を用意している。

それは「DNA」と呼ばれる化学物質である。

ごくおおざっぱに述べるならば、以下のように遺伝情報が具体的に表に出てくることになっている。

 

(1) 細胞の核の中にある「DNA」という物質

     ↓ 《転写》

(2) 「DNA」の情報を写して造られた「RNA」という物質が核の外へ出る

     ↓ 《翻訳》

(3) 「RNA」の情報を元にして合成された「タンパク質」

 

 この生物共通の遺伝情報の流れを「セントラルドグマ」と称する。

かつてこの「セントラルドグマ」は例外のない全生物共通の過程とされ、また逆行することはないとされた。

 

 では(3)で合成された「タンパク質」とは何か。これまた一筋縄では説明できない曲者…というか、まあスゴい物質なのだ。

 

タンパク質の役割に軽く触れてみよう。

 筋肉を造る(アクチン、ミオシン等)

 物質を運ぶ(アルブミン、輸送タンパク、チャネル、ダイニン、キネシン等)

 情報を伝える(インスリン、アドレナリン、レセプター等)

 代謝(同化や異化)の化学反応を速やかに行わせる「触媒作用」

 

 この触媒の作用を持つタンパク質を、特に「酵素」という。酵素の作用は酸性またはアルカリ性度や温度によって重大な影響を受ける。ヒトが持つ99%以上の酵素は、中性かつ体温の条件であれば効果絶大に働くが、どちらかが少しずれたならば、もう満足には働いてくれない。

 

 さて、この「酵素」が作用して初めて化学反応、つまり代謝が起こる。逆に言えば、酵素が連鎖的にずっと作用しているから、生物は「生きている」のだ。連鎖が何らかの原因で停まることが、すなわち「死」である。

 

 では「酵素」の作用の具体例を挙げてみよう。

 

・アミラーゼまたプチアリン(ドイツ語読み…英語読みならアミレース):唾液などに含まれ、デンプン(アミロース)を麦芽糖(マルトース)に分解する

ATPアーゼ:ATPを分解して、細胞が使うエネルギーを供給する

・カタラーゼ:細胞中で生じる有害な過酸化水素(H2O2)を水と酸素に分解する

ペプシン:胃液中にあって、タンパク質を消化分解する。ただし強酸性中でなければ働かない(ので、胃液は強酸性なのだ)

 

 もう言いたいことはおわかりいただけただろう。生物は酵素(つまりタンパク質)の作用なしでは成り立たない「カラクリ」なのである。筋肉のパワーも視覚も色素も、すべて酵素の作用の結果だとお考えいただきたい。


 言い換えてみれば、生物体とはひたすら酵素の働きを速やかに行わせるための存在なのかも知れない。

 例えば体温。ヒトの場合、ひたすらに36度程度を守り抜きて健康な生活をいとなんでいる。34度未満でも、42度越えでも生命を保つことはできないのである。

 これすべて酵素のため、酵素の御機嫌をとり続けなければならないのだ。


  そして…こうした流れの結果として、

「DNA」→「RNA」→「タンパク質」、つまり酵素が生じ、酵素の触媒作用によってその生物の性質が表れることを「遺伝情報の発現」と称するのである。

 

 今度は角度を変え、化学物質的な観点からそれぞれの物質を眺めてみたい。

 

 まず、タンパク質。タンパク質は、アミノ酸が多数結合したものである。アミノ酸自体には多くの種類があるが、タンパク質を構成できるアミノ酸は二十種類だけで、その数と順序でタンパク質の性質が決まる。

 

 例えばインスリンというタンパク質は、アミノ酸が二十一個並んだ鎖と三十個並んだ鎖で構成されていて、肝臓に「血糖(血液中のブドウ糖濃度、グルコース)」を増やし過ぎないように指示する作用がある。増えた場合は即、肝細胞に働きかけて、グルコースからグリコーゲンを合成させるホルモンなのである。

いわば、細胞同士のメッセージというか、お手紙とような作用を持っているタンパク質と言えよう。


 アミノ酸の例として、グリシングルタミン酸フェニルアラニンメチオニンシステインなどがある。

 

 次にRNARNAはリボ核酸の略号。RNAは「リン酸」、リボースという「糖」、四種類ある「塩基」が一つずつ結合したヌクレオチドが多数鎖状に結合したもの。塩基にはアデニン、シトシン、グアニン、ウラシルの四種類があり、この塩基三つの並ぶ順序がアミノ酸一つに対応している。

 

 例えば、ウラシルが三つ並ぶと「フェニルアラニン」それに一つが対応し、

アデニン-ウラシル―グアニンの順序だと、「メチオニン(合成開始)」

が対応する。この「塩基配列アミノ酸の配列に置き換える過程」を「翻訳」と言う。 

 なお、既出の「逆翻訳」とは、タンパク質の中の「アミノ酸配列を塩基の配列に置き換える過程」を指すが、現代科学では未発見であり、あくまでも仮説である。

 

アミノ酸メチオニン」は→RNA 塩基のアデニン-ウラシル―グアニンの配列に、

 「フェニルアラニン」は→RNA 塩基のウラシル―ウラシル―ウラシルの配列に、

それぞれ置き換えられ、順に結合されてタンパク質合成のための「遺伝子の情報」に変換されることを指す。

 

 今度はDNAだ。DNAはデオキシリボ核酸の略号。DNAは「リン酸」、デオキシリボースという「糖」、4種類ある「塩基」が一つずつ結合したヌクレオチドが多数鎖状に結合したヌクレオチド鎖が、さらにもう一本のヌクレオチド鎖と緩く結合して互いに巻き合った「二重らせん構造」になっている。

 塩基にはアデニン、シトシン、グアニン、チミンの四種類がある

 

 別の表現をすると、掛けた縄ばしごを下から軽くねじった形が「二重らせん構造」で、二本の縄がヌクレオチド鎖、真ん中のはしご段の部分が「二つの塩基」で、必ずシトシンとグアニン、アデニンとチミンが向き合う(相補性という)形になっている分子である。遺伝子の情報は、RNA塩基と同様に「塩基の配列順序」に含まれている。DNAからRNAを合成することを「転写」と言う。

 

 DNAのアデニンは、塩基の相補性に従ってRNAのウラシルに、チミンはアデニンに、シトシンはグアニンに、グアニンはシトシンに核内で正確に「転写」され、このRNAが「翻訳」されてタンパク質が合成される。これが通常の生物体内で起きている「タンパク質合成」の流れである。

 

 その「DNA分子の二重らせん構造」の分子モデルを初めて作った研究者こそがかの高名なワトソン&クリックである。

 

 なおクリックは「セントラルドグマ」の提唱者でもあった。