魅入られて 第1章 4節1 質問
4 質問
さて… 生徒には教科当番という仕事が「希望で」割り振られる。委員だけでは生徒全員分のポストが不足し、3分の1程度の人間の役割分担がまったくなくなってしまう。そこで1科目1~3名程度の生徒が担当科目に付き、その授業の前後に担当教員に連絡をとるという係である。別名『御用聞き』とも言うが、「時代劇の十手」を持っていそうで笑ってしまう。
「御用だ、御用だ」って、捕り物(とりもの)かい?
御用の『御』は御上(おかみ、つまり将軍)を指す言葉だし、教員はそんなに偉いんか、と誤解してしまいそうになる。実際そう振る舞う教員がほとんどだが…
よく考えると、教員は立派な「指導者」のはずなのだ。当然時間管理も自分でできるはずなのに、わざわざ『次授業です』と迎えを要求し、自分で持てる程度なのにわざわざ教科書などを持たせるのだろう。どうせたいした準備などありはしないのだ。
ただ…近頃ではパソコンや多数のI-padを授業で用いる方も多い。
昔とは違うのだ…この疑問だけは密かに取り下げることにしておこう。
さて… 授業に行こうと職員室を出ると、ときどき一緒に並んで歩きながら他愛もない会話をしていく女子の高校生徒(以下JK)… その存在に気付いたのはいつのことだろう。
そのJKは教科当番などで職員室に来たあと教室に戻るときに、私と並んで軽く挨拶したり、一言二言話しながら歩いていく。お互いの行き先まで行けば、
「じゃあ」
と離れるだけだ。そういうこと自体は別に珍しいことではないが、そんなことが何回もあるとこちらも意識するようになる。小麦色の肌が健康的な印象的で、小柄でほっそりとした体にパワーを詰め込んだエネルギッシュな娘だ。
もしかして…と思いつき、知らん顔で様子を窺っていると、彼女もこちらをさりげなく見ている様子だ。目を合わせないようにするのは、なかなかの難事であるが…
私が支度を整えて立ち上がると、彼女もなんとなく用事を終えて出口に向かう。時に私が先に出ていると、小走りで追いついてきて
『センセ、こんにちは』
と声を掛けて来てくれる。周囲に人が居なかったり、少なかったりするとしなやかな手で私の肩をぽんと触わってくることが徐々に多くなってきた。
会話する機会も話題も自然に増えて来る。
好きなタイプはなんと可愛い女の子だという。
理想の男性像はあるけど、実はリアルの男にはトキメイタことがないそうだ。
まあ、あくまでも自称ではあるが…
あるとき、彼女から
『黒縞アキです』
と元気よく名乗ってくれた。特技は
『茶道なの…意外でしょ』
と小さく笑う。
よく一緒にいるのは山本ノゾミ。やはり小柄で一見大人しい印象の、やや内また気味に静かに歩く色白の少女…。ただ、第一印象はそうでも、慣れれば普通ににぎやかなJKであることが分かってきた。特技はサキソフォンだというが、ついに聴く機会がないまま今に至っている。山本さんは一緒に走ってきて声も掛けてくれるが、肩に触れてくるようなことは一度もなかった。まあ、それが普通のJKの姿である。
授業は楽しいことも多いが、時に投げ出したいほど面倒になり、深刻な嫌悪感に駆られることもある。出席もたまに取り忘れたりする。
「あれ佐藤さん、さっきの聞き逃したかな? 学校の元気を応援してくれるのは…
何ていう団体だっけ?」
『…』
「ほら、保護者と教員の連合会みたいな…」 ←ほぼ答え
『あ、PTA… ですか』
「そう、学校の元気エネルギーはPTAね、正解。
それじゃ本題ね。細胞の元気エネルギーをくれるのは… 何だっけ?」
『…』
「んんん、もうとにかくPTAを逆さに読んで!」 ←ほぼ答え
『あ、ATP… です』
「それそれっ! アデノシン三リン酸ってやつの略称だったね」
ふう… ハイ、じゃ次は梅田さんね。
ちなみに男女問わず「さん」付けで呼ぶのが私の流儀だ。
「梅田さんね、細胞の中でそのATPをいっぱい作る、細長いっぽい内側ヒダヒダの物体の名前は?」
『… わ、わすれました』
「んっ… ああ、腹減った! 栄養補給で食べたいのは、お肉とトウモロコシと…?」
『あ、ミトコンドリアです』
「おお、よく思い出したね。そうATPと言えば、 ミート コーン ドリアだ。
ホタテ貝っぽい波々のお皿に盛り付けるんだぜ、ミート コーン どりゃあ、そんなイメージ湧いてきたかい?」
…なんて同じ内容の授業を何回も繰り返してしていると、滅多にないけど、ごくたまに死にたくなる。
アキは、見た目の印象よりずっと積極的だった。白状すると、実は…私は生徒の顔名前を合致させるのが苦手で…あんまり正確に覚えていない。そもそも覚えようという意識が足りないのだと思う。
理由は… 顔にも名前にもさほど関心が持てないこと、パソコンの写真や動画を中心に使った新形式の授業の進行で精一杯であったこと、週二コマ程度の学習集団を九集団も受け持ったからである。数に換算してざっと三百名の生徒さんを、週1回とか週2回とかの理科の授業を運営しながら覚えろというワケだが… 週1回だと、指名して答えを聞くとか悠長なことしてるヒマないわ。
誰だよ、こんな科目考えたヤツは…
いやいや、そんな不満はあっても、生徒さんにとっては人生ただ1回の授業なのである。
ここは素直に謝っとこう、怠慢で済みませんでした。
「山本」はともかく「黒縞(くろしま)」は初めて出会う苗字だった。シマウマさんみたいだな…と考えたにも関わらず、いつもとっさに思い出せなくて困っていた。
アキはそんな私の話を聞くと、私の背中に手を当ててこう言った。
『もう、とにかく…
みんなの顔と名前を憶えてね。適当じゃみんな泣くよ…ねぇ、ノゾミ』
『そうだよ、こんな可愛い娘を覚えてないとか、もはやセクハラだよね、アキ』
『ちゃんと生徒を見てよ。アキの左手薬指と小指が実は動かないとか知ってた?』
「ええっ、動かないっ? ゴメンね、黒縞さん。まださ、授業だけで手一杯。
もうちょっと待ってよ」
言い訳ではなく当時の私の本心だったが、結局顔と名前の組み合わせはテキトーなままに終わってしまった。性格とかもう全然テンプラである。
一学期は体調を崩し続け、本当に私自身が生きるのが精一杯だった。微熱でフラフラしていたときや、ストレスで声が出なくなったときには、カラオケセットを持ち込み、マイク片手にささやき声で授業したこともあった。
いっそ高熱でも出てくれれば休めるのに… と自分の身体が恨めしくなる毎日だった。
文化祭が白日夢のように終わってからようやく、私の担当する某クラスに黒縞アキが居ることに気付いた。そしてその斜め前には山本ノゾミも。
授業中の彼女たちは実に静かだった。あまり顔を上げず、目を合わせることもほとんどない。だから気付かなかったのかも知れない。しかし廊下では
『今日センセの服のボタンが一つ外れてた』とか
『センセの言ってたこと、アキも気付いたことあるよ』とか、時には
『今日は思わず寝ちゃった、ゴメンナサイ』とか、
『ノゾミの望みは赤点じゃないこと』とか、
別人のように陽気に話しかけてくるのだ。
私は私で、この頃になってもフルネームをしっかり覚えきれずに「黒田さん、おはよう」とか「あ、ごめん山田さん」とか、半分本気、半分わざと呼び間違えていた記憶がある。
ちなみに授業中や廊下などでは、私は生徒さんを基本的に苗字で呼ぶ。
以前受け持った女子生徒が『名前呼び捨ては彼氏の特権!』と主張していたのが忘れられず、それ以来の習慣になっていたからだ。
しかし生徒同士は名前呼び捨てで話すことが多く、時に誰を指すのか迷うこともあった。だから廊下や準備室で相談や雑談に来ている御客様に対しては、みんなに合わせて下の名前で呼ぶように切り替えていた。
一学期の期末テスト直前、黒縞アキが私のところにやって来た。
『高山センセ、今日の放課後質問に来てもいいですか?』
「ああ、予定は空けとくからいつでもどうぞ」
『じゃ、お願いします。アタシ頭悪いから困るかもですよ』
「ふふ、そりゃ楽しみだな」
実際のところ、テスト直前は我々もなかなか忙しい。問題作成が終わっていたとしても、模範解答と配点案の作成、問題と解答用紙の印刷、テスト課題の配布に授業ノート点検、未提出者の呼び出しと督促…
ただ自分の主義として、この時期の放課後の時間を空けられるように、早めの準備を怠らなかった。
その日、アキはやってきた。
『こんにちは、じゃあお願いします』
「よし、やるか。あれ? 山本さんは?」
『あの子、自分だけで集中してやりたいからって帰りました』
「なるほど。黒縞さん、復習してみたの? どこからやろうか」
『なんかぜんぜんわからなくて。いっぱいありますよ』
「じゃコトバを覚えるのは、そうだな… 虫食いは今から解説初めても無理だから覚えてもらうとして…」
『はい。あ、でも…』
「例えばこんなふうにやるの。そう、コレとかこの問題とかね、おうちで答えを鉛筆で薄く入れたら、声出して5回読む。時間も食わないし、たいていそれで何とかなる」
『まさか、アキ頭悪いですよ』
「ふふふ、でも試してみたことないでしょ?ダイジョブだって」
『そんな、ほんとうですか?』
「小さくても、声出すのが大切なとこ。それでも心配かな?」
『だって、わたしバカなんだもん』
「アキ、それは思い込み。
まだ心配なら薄く書いた鉛筆の文字を消してさ、もう2回読んでごらん』
『あっ… そうか、そうですね』
「そういうこと。復習もすぐできるのがこの方法の良いところなんだ」
『うん、やってみます』
「よし、期待しとこう。今からはそう、解説が必要なのと計算とかやっとくか?」
『はいっ!』
アキはとても熱心に聞いていたが、思ったより熱心すぎて持て余した。職員室の私の机の近くから離れず、周囲に迷惑を掛けてしまうことになったからだ。しかし…こうして質問しに来てくれたりして、気分が悪いワケがない。楽しくて時にお茶目で…私も徐々にその存在を意識するようになっていた。
テストのクラス平均は59点、アキの解答用紙には「77」の数字が踊っていた。
テスト返却のあとの廊下、アキがすっと近づいてくる。
『センセ、こんなに点数取れたの初めてです。ありがとうございました。
少し間をおいて、
『次もぜひお願いします』
「ふふふ、そいつは良かったな。黒縞さんが頑張ったからさ」
なぜか鬼平犯科帳みたいなセリフを気取って、私は答えた。
一度立ち去りかけて瞬時ためらった後、彼女が振り返った。
細くて長い左手の指先を見つめながら、やっと聞き取れる声でアキがつぶやく。
『アキね、今回みたいに頑張ったらさ、この薬指と小指もいつか動くかもなっ…て思えてきたの』
「…!?」
『ご、ごめんね、びっくりするよね』
覆いかぶせるように彼女が言った。
「そ、そうだなぁ… 強いモチベーションと適切なリハビリみたいな練習があれば、できるかもな。何事もトライだね」
もし元々神経が接続していなければ不可能であっても、今はそう言うしかない。
『好きなヒトの右手と、この五本の指で絡みあえるように頑張るね… だからセンセ、絶対手伝ってね』
アキは私の右手をつつくように軽く触れながらささやいた。そして少し慌てたように、小走りに教室に戻っていった。
茫然と突っ立っている私を、翻ったスカートが残した風が包んだ。
歩きだしてから、改めて今の会話を思い返してみる。
「おー まいがっ… 手伝うって…
どういうことなんだろう?」