魅入られて 第1章 4節3

 赤点補講をやり、進学補講を持ち、クラスの三者面談などを実施していると、休みの前半などあっという間に終わっている。


 面談が一人30分として、一クラス40人でどんなに頑張っても20時間かかってしまう。一日の労働の基準を八時間として、休みなしで専念したとしても丸2日半かかるのだ。自分の担当は理科なので、自分の学年だけの生徒さんにしか関りない、などということはない。そんな担当学年だけで担当時間が埋まるなどという都合の良い科目は、大きな学校の英数国というメジャー3科目でちょいちょい…あとは担当がただ一人しかいないような家庭科や芸術、情報あたり。

 理社マイナー2科目では、そんな都合の良いことは、過去の経験では僅かに一度だけだ。逆に言うと、毎年他学年と関わるワケで、特に3年生の補講は毎年の恒例行事のようなものだから、午前中の面談はあきらめるしかない。つまり…面談は午前の補講とぶつからないように午後だけの計画を組んで進めるし、これにキャンセルが入ったり、来るはずなのに来ないドジっ子がいたり、時間内に終えられずに時間延長やらが入るため、正味一週間から十日かかってしまう。


 さらに日頃できなかった雑務なども、一挙に夏休みに消化しておくしかない。私の場合は教科書も問題集も変わったために、今後のノート用プリントと、黒板投影用の画像や動画を、至急整備する必要があった。

 そういう意味では一学期はまさに自転車操業だったし、あのヒドイ体調にも関わらず、追い詰められた切迫感のある毎日をよくぞ乗り切れたと思う。

 

 そんな中、ぽつぽつとアキやアカネからの連絡が入るようになった。内容はたいしたものではない。お互いに知っているのは電話番号だけだから、つながるのはいわゆるSMS(ショートメール)だけであり、元気ですか? とか、今日こんなことがあった、とか、そんなもの。そもそも差し障りない程度に返信を返していた。

 

 アカネは人見知りが激しいようだが、慣れてくれば開放的な性格でさばさばしている。特技は中学から続けている水泳で、この学校でも水泳部のエースらしい。県の中部大会では百m平泳ぎで六位なの、と自慢されたりした。言われてみれば、なるほど…確かに肩のあたりが逞しい。

そういえば、かつてアカネはこんなふうに言っていた。
『運動量ハンパないんだ。だからね…』
ひと呼吸おいて、ちょっと下に目を向けてからアカネは話を続けた。


『ほら… だから、水泳でエネルギーを使い過ぎてさ…
 見て、胸が… オッパイが発達してくれないの』


 すかさずアキとユリが
『あああ、責任転嫁!』
『水泳のせいじゃねえ!』

と突っ込みを入れ、みんなで笑い転げたことがあった。

思わずアカネも苦笑い…
 
 さらにユリが口をはさむ。
『実はね、アカネの秘密兵器は足よ。甲がデカくて指も長くて水かき付き。フィンみたいなんだよ』
「それは… 水泳向きの足だね、親に感謝だな、アカネ」
『たしかに水泳にはありがたいけど、本当はちょっと… かなりイヤなんだよ』

とアカネ。そして、
『だって女の子なんだもん。カッパみたいだし…』ともう一言。

 

「そんな、カッパさんが喜ぶぞ、ふふふ」

あああ、でもこのまま終わってはいけないかもな… そう感じて、 

「でもさ、慰めにはならないけどさ…」と私が続けた。


「誰もがお母さんのお腹にいたときにはさ、手にも足にも水かきがあったんだよ」
『えっ、ホントですか?』
「ああ… でも手足が大きく発達する前にね、その水かきを担当してた細胞たちは、あるとき自分から死んでしまうの」
『そんな… アタシのために話作ってませんか?』

「それはない。アポトーシスと言ってね、指ができるためには大切な過程なんだ」
『じゃお腹の中の赤ちゃん(胎児)の頃は全員カッパみたいに?』
「そういうこと。アカネの足の細胞はね、頑張って生き残ってくれたんだ、水泳に都合が良いように、かもね」
『そうか… わかった、頑張っててくれたんだ。高校卒業したら手術しようかと思ってたの』
「なるほど、たしかに…。少なくとも手ではなくて良かったね。

 足だったら… むしろ願ったって叶うことじゃないよ」

 実際のところどんなものなのか、それは上靴の上から見ても分からない。私としてはその場しのぎではなく、彼女自身がその身体への嫌悪感を減じてほしかったのだ。

そんな経緯もあって、アカネは自分に親近感を感じていたらしい。

 

 アキはバドミントン部ではあるが、どうやらあまり上手ではないようだ。ダブルスを組む仲間とはあまりうまく行っていないらしくて、時々グチが混じっていた。

 『あの子ね、自分の失敗はゴメンねだけで済ますのに、アキの失敗は後でもねちねちとしつこく咎めてくるんだよ』とか、アキにはすごく深刻な悩みであるようだった。それでも部活は楽しいようで、と熱心に練習する様子が伝わってきた。

 

 外ではこのクソ暑い中で、野球部やサッカー部、テニス部などが熱心に練習している。私は運動部の指導など到底自信はない。意識の根底から向いてないのだ。かつて主顧問として担当させられた運動部の生徒は可哀想だった。中学のころに道場で少し齧った剣道部はまだ良いとしても、軟式テニス部など何もわからず…当時の生徒さんごめんなさい。
 また某高校では突然「応援団」を受け持たされて往生どころか絶命状態。夏の野球応援とか、よく運営できたと今でも冷や汗が滲む思いだ。

 

 自信がない理由はもう一つある。勝つことに意義があるどころか、それにどんな意味があるのかが納得できない性格を持って生まれてしまったらしい。
 野球で例えると

「一つのボールを十八人で、ベンチを含め応援席を含めて数百人で追う夢だ」という熱いセリフよりも、
「小さな一つのボールごときを、数百人のおとなが目の色変えて追いかけるなんて」という冷静な御意見の方に一票入れたくなる。
そんな思考回路を持ってしまったのが私の不幸なのだと思う。


 要するに、私としては運動部など健康に身体を動かせれば良い目的だけのものであって、遠征だの試合だのは正直余計だという思考なのだ。強いところ、特に私立は、始めから選手を集めているし、指導というか訓練というか、もうほとんどビジネスの体制が整っているし、カネも掛けている。たとえば…北海道でどうして冬に野球ができるのか。それは室内練習場があるからだ。

 規模は異なるが、公立で「強豪」とか言っても「裁量枠」だの「スポーツ学科」だのという美名のもとに、成績度外視で選手を集めているのが実情だ。まともな学校の中でなら、彼ら選手は在学中に大量の赤点を取得することになるが、卒業後の進学先だけはちゃんと確保できるのだ。それは…

 まともな学校の優秀生は大量の名高い私立大学を受け、多くの合格をゲットする。その「実績」をもとに、大学側は翌年に「指定校推薦」やら「推薦」やらを高校に持ち掛けて来る。ここまで書けば、察することができるはずだ。それでも「まとも」なのだと言っておこう。まともでないところは… 

 現在、受験生は売り手市場で、とにかく大学は生徒が欲しい。名前が書けてカネさえ払ってくれるなら、まるで合格を売ってくれるようなところもないわけではない。

 

 余談が長くなってしまった。そう、部活動の話だった。

 今年の科学部は…たいした大会も遠征もなく、そもそもヤル気のある部員さんはあまりいない。どこかに所属しなきゃいけないから籍だけおいて、早く帰ってアルバイトに励み、動画を見たりSNSに投稿したりするのが生き甲斐という生徒さんたちが多かった。

 そんな私にとってそんな科学部は、「そのときには」願ってもない幸運だった。あとから考えれば、とんでもない不運だったことになるのだが…

 

 おー まいがっ…


 夏休み後半になって、ガラケーの液晶が滲み始めた。電話として支障がないといえば支障はないが、滲みは徐々に広がり、読めないエリアが増えていき、やむなく買い替えを決意した。どうせほとんど電話やメールなど家族以外からは来ないのである。高価いのはゴメンだと調べまくった。


 四年使うとしてA社B社C社D社でいくらかかるか。エクセルで表を作りシミュレーションしたうえで某格安会社を決めた。こうしてスマホを持つことになったのも、あとから思えば不幸としか言いようのない出来事だった。そういえば…液晶が滲み始めたのは、「見せて」とせがんだあの娘が「ボテッ」と落としてしまったあのあとからだったっけな…
『本当にごめんなさい』と真剣に謝ってくれたけ…

 今思えば… いや、もうよそう。

 

 さて、あの夏の日に話を戻そう。
ある日何かの返信ついでに、

「携帯画面が死にそう… 買い替えかも」

とアキに連絡すると、
『じゃあいよいよスマホですね』と返信があった。
同じ連絡をしたアカネからは
『次のキャリアと機種は何にするんですか』と返ってきた。


ユリからの返信は、まだ来ていない。
同じ文への返信にも性格が表れるんだな、と私は一人で面白がっていた。

 

 このときの私はまだLINE(ライン)とTwitter(ツイッター)は名前だけ知っていて、Instagram(インスタグラム)はその存在さえ知らなかった。スマホなど面倒なだけで、できることなら機種変更などしたくはなかったのが本心だ。


 夏休みの終わりかけたある日、スマホが配達されてきた。たまたま帰省していた息子に頼み、家族連絡用のLINEの設定をしてもらった。この格安スマホの契約上、家の無線LANを使う限りSNSのデータ使用は無制限の設定になっていたからだ。

 

SIMを替える直前、ときおり連絡を取る知り合いには、
「機種変。繋がらなければしばらくゴメン」
とSMSで送っておいた。

 

 数時間してLINEに着信のようなものがあった。何もわからないまま感性だけで操作してみたが、使い方はやはり謎で、困惑した私は操作を諦め、また息子に聞けばいいやとしばらく放っておくことにした。

 

 やがてもう一度着信があった。
『だ~れだ?』