魅入られて 2-2 子蛇

2節 子蛇

 

 こうしてユキを納めた甕は、土のなかで長くゆるやかな時間を過ごすことになる。

 

 甕の上には近くの竹やぶから舞い降りる竹の葉が積もり、成長期のエノコログサやメヒシバが生い茂って、ひと月もすると単なる「盛り上がり」だけが名残りを示すようになっていた。マヌケ男が作ってくれた破孔からは最低限の通気を確保できたし、大雨の時には僅かながらも水分がしたたり落ちてくることもあった。むしろ大量に洩るようなら窒息死するしかない墓のような独房でもあった。

 

 身体が三分(さんぶ…9ミリメートル)ほどの酒に漬かる中、ユキは甕の底の真ん中に自分の肉片を集めて「丘」を作り、そこに卵を産むことができた。酒といっても… 現代の酒のアルコール分が16~18%程度であるのに対して、当時の酒のアルコール分は5%程度、つまり相当に薄いシロモノであった。だから少々飲んでも命に別状が出るほどの濃度ではなかったのだ。

 ユキは気が遠くなりながらも、ひたすらに甕の底一杯にとぐろを巻き、身体を張って卵が動かないように、そして酒に触れないよう空気中に支え続けた。

 

 鳥類の場合、抱卵中の親鳥は、温めムラが生じたり、殻とヒナとが癒着しないように何度も何度も「転卵」を行う。しかし爬虫類では基本卵は産みっぱなしにされる。

 実は「転卵」すると子蛇が孵化することはない… 死んでしまうのだ。本能的にそれを悟っていたユキは、一度体勢を決めるとあとは仏像のように動かなくなった。


 二ヶ月ほどが過ぎ、酒のアルコールも水分も徐々に蒸発して少なくなったころに子蛇が生まれた。子蛇に食わせるものは… 子蛇が勝手に食いつくのだが… 腐臭に釣られて甕に入って来る虫やコバエ、ナメクジなど何でも良かったのだ。とにかく食えれば良い… 


 それもない時には、ちょうど酒というか… このころには酢酸菌によってエタノールからアセトアルデヒド、さらに酢酸にまで酸化され、うすい酢の臭いになった液体に保存された形になっている我が身を、子の顔の前で動かして見せて食わせた。この方法は、たまたまの偶然が生みだした試行錯誤の賜物であった。蛇は基本的に生き餌、または温度が周囲より高いものにしか食いつかない生物であるから、こうしたノウハウの発見は奇跡的であると言えるだろう。しかも子蛇のサバイバルのためには不可欠な「技術」でもあった。


 「強く育ちそうな子蛇」は、勝手に「見込みがなさそうな子蛇」を共食いして、ますます強く大きく育っていった。本来子蛇は孵化すればすぐ独り立ちするものだが、偶然のこの状況ではそれができず、自然と「育児のように」成長を見守ることになったのだ。

 

 共食い… というと何やら凄まじい修羅場を想像するが、それはヒトの倫理から見た価値観であろう。


 野生動物の中では共食いは珍しくはない。ワシやタカ、フクロウなどの猛禽類は、1つの卵を産み、それを温め始めてから数日経ったところでもう1つの卵を産む。当然最初の卵は先に孵化(ふか)することになり、先に成長を始める。
 後の卵が無事に孵っても、先に生まれたヒナの方が大きく強いため、親が運んでくるエサにありつくことは至難であり、よほどエサが豊富な年でないかぎり結局は第2子が餓死することになる。言い換えると、第2子ははじめから予備というか、スペアなのである。しかし結局は兄弟姉妹の血肉になるのだから、種族としては損したことにはなっていない。

 

 可愛い小鳥ちゃんはどうか?
 親は卵を毎朝一つずつ産み、必要数だけ産んでから温めにかかる。この時期の親の胸の毛が抜けて、しかも熱くなっている。熱くて仕方ないから、卵のような冷たいものに胸を押し付けるだけの行動なのだ。

 「抱卵は本能である」と言っても、実はこうした単純な行為が連鎖的に起こって、一見複雑かつ合理的な行動に見えるだけのものなのである。合理的な本能…遺伝的なプログラムを持った種は生き残り、そうでない種はいつの間にか絶滅して現代の生物相…ファウナ(動物相)やフローラ(植物相)が成立してきたのだ。


 小鳥たちのように必要数だけの卵を産んでから温めると、ヒナはほぼ同時に孵化することになる。ヒナ同士の直接食う食われるの関係は無くても、例えば巣の環境が落ち着かなかったり、天敵が近くをうろつくような場合には、親が子や卵を食べてしまう事件がちょいちょい起きる。
 この原因はむしろストレスであり、栄養分を捨てる気になれなかった結果といえるだろう。これも種族としては損したことにはなっていない。

 

 蛇の場合、ヒトに見られるような倫理観はまあゼロであり、特に子蛇たちはムシやらナメクジやら同時に孵った兄弟やら…弥吉に切られたユキの切り身の酒漬けを食っても、誰も気に病む者は居ない。

 

 蛇族は基本的に生餌や卵しか食べないが、ナメクジを食べようとしてたまたま一緒に口に入ってしまった肉片もまた「食物」であることを学習したのである。むろんそれが「酢」による防腐効果であまり腐敗していなかったことが大切なことだった。とにかく食えるもんは食うのだ。

 

 ユキは…というと、自身の切り身を食べるには、ヘビとして生きてきた年月が長すぎたのかも知れない。どんな動物でも、新しい経験を試みるためには、若さと柔軟な精神が必要なのだ。特に食欲性欲睡眠欲といった本能に近い部分での柔軟性に欠ける、言い換えれば融通や変更が効かない傾向が強い。

 

 同様に、ユキは子蛇どもを食べることを、特に理由はない…本能的としか説明できないが… 避けていた。どのみち、この甕から出ることはできないのだ。


 さて、こうして育った二匹の「選ばれし子蛇」は、ユキとともに農家の家のすぐ脇で生き延び、人語を聞きながら成長した。発声は出来なくても、おぼろげに人語の意味がわかるインテリ知性派の蛇に育っていったのである。同時におぼろげながらも「感情」というものが芽生え始めていた。端的には愛や憎しみの気持ちと言っても良いだろう。

 

 さらに… 言葉の意味を三匹の蛇が理解するにつれて、自らの意思を伝える手段が編み出された。

 そもそも蛇には耳の穴がない。あると土や石が入ってしまうだろう。しかし内耳はあって音は聞こえている。

 身体が触れているもの、例えば土や木の枝の振動を皮膚で捉え、骨伝導のように伝わった振動を内耳で「音」として感じるのだ。いわば全身が耳ともいえるシステムである。では「声」はどうするのだ?

 

 世界各地の地底湖等では、目のないサカナや無脊椎動物が発見されることがある。

 ある学者によれば、生物のエネルギー消費の十五%が脳の活動も含めた「視覚」に費やされるという。だから目が役立たない環境では、いとも簡単に視覚が省略されていくのだそうだ。真っ暗な中では、視力に必要なエネルギーはすべて無駄になるからである。

 ユキたちのように、たった一代ではそこまで劇的な変化は起きることはない。しかし、視力を使わなくなると他の感覚が異様に発達してくる。むろん脳の発達具合も連動する。音や臭い、さらに触覚などに異常とも言えるくらい鋭敏になってくるのだ。そういうユキたちには「声」は必要がなかった。

 

 ひとつには呼気と吸気による僅かな音… 簡単な、たとえばイエスかノーかくらいならそれで充分用は足りる。さらに、もともと蛇は穴居性が強く、また誰にも負けない素晴らしい装置を生まれ付き備えている。それがあのチロリチロリと出てくる舌ベロである。空気中の「揮発した分子」を舌に付けて集めている動作がソレで、下に付着した分子は、口のなかにある「ヤコブソン器官」で分析されて、「匂い」として感知されることになる。

 

 ユキたちは自身の舌の動きを、相手の「ヤコブソン器官」近くの触覚受容体に直接伝えることでコトバとして伝達する方法を編み出した。これは画期的とも言える発明である。そう… チョット見はキスしているようでも、ユキたちは真剣に会話しているのである。

 

 メスの子蛇は生まれてからしばらく日の光を浴びずに育ち、生まれながらの白い鱗(ウロコ)がまばゆいばかりに輝く銀白であった。それにちなんで、彼女を「ギン」と呼ぶことにしたい。

 もう一匹はオスであり、白いは白くても、やや青みがかった体色から「アオ」と名付けておこう。

 

 共に狭くて臭い空間にいるうち、彼らの間だけでも簡単な意思の疎通ができる「一家」が形成されていた。この「集団の意識」は、蛇という種族にとって、革命的に斬新だった。

 

 いよいよ、ギンとアオが甕の外に出るときが来た。甕のなかの食糧事情が最悪に落ち込んだからであり、外に出る体力と体長を備えたからでもある。子蛇の太さなら甕の小さな穴を通ることができたので、ユキが下から支えて押し出したのである。痩せて相当細くなってはきたものの、大きく太いユキは、やはり通ることはできなかったのだ。

 

 子蛇の独り立ちをユキは祝福した。親の使命は果たした、これで思い残すことなく死ねる。長い間解けることのなかった身体の緊張がバリバリと解けていった。排泄物の混じった酒は蒸発で減り続け、僅かなアルコールは酸化され尽くして「酢の臭い」になり、泥や糞と混じってドロドロしていた。それももうどうでも良かった。これからは… どうせ永い眠りに就くのだから。

 

 それから… 一晩経って、意外なことにアオが戻ってきた。