魅入られて 2-3節 一族

3節 一族

 

「なぜ… ここ?」 ユキは訊ねた。

…というより詰問した。せっかく独り立ちできたのに… ユキとしては無念だった。


「行け… アオよ」
アオが静かに佇むうち、今度はギンが戻ってきた。ギンは小さなカエルを銜えていた。

 

 文明が発達しているはずの人類さえ、日常的に使う言葉は意外に少ない。ある言語学者によると、普通の会話はせいぜい千個程度の単語で構成できるという。


 学生時代に英語が苦手だったはずの人間が、ちょっと留学なりホームステイなりで経験を積むと、驚くほど流暢に外国語を操っていたりして驚いたことなんかないだろうか? しかし、もっと驚くのは、使っている単語自体はたいして難しいものでもなく、むしろありふれた簡単な単語を、うまいこと言い回していることだ。つまり、英語の辞書で学ぶようないちいち専門的な言い方や、高度な単語力は、実はさほど必要ないのである。


 そういう意味で、大学入試で用いるような単語や言い回しは日常会話には不要で、せいぜい文学を深く読む程度の御利益しかない。理系の論文を読んだり書いたりするには、たいした文法など必要無く、むしろ誤りを恐れず、堂々と主張できる度胸の方が大切であるような気がする。

 

 同様な例は、少しだけ意識をしさえすれば普段の生活のなかでもしばしば目にすることができる。

 たとえば… 我々は文明人だが、しかしたいていの文明人はマッチやライターなしでは火を起こすことさえできない。ましてや木や竹の加工、服やロープの製造、金属製造や切削などどれも無理っぽく、これではとうてい「文明人」の名には値しないではないか。文明人は社会の1つの歯車としては有能だが、個人としては未開人種にまったく敵いはしないのではないかと思うことがある。

 

 話を甕(カメ)の中に戻そう。

 ユキは半ば怒りながらギンの口に舌を入れて、尋ねた。


 「なぜ…? 戻る… ダメ」
ギンの口からはすでに小さなカエルが落ち、甕底の小さな水たまりでもがいていた。水たまりというより、排泄物で臭くて、発酵で酸っぱく、土でどろどろとしていた。

 

 『先 食べる あと 話』
 ギンはユキがここ数ケ月の間ほぼ絶食していたのを知っていたのである。今まで生き残ってくることができたのは、体温の維持にエネルギーを浪費しない変温動物ならでは特技のおかげだろう。

 

 言われてようやくユキは自身の空腹に気付いた。気付いた瞬間、舌がカエルを捜していた。ヤコブソン器官が臭いを捉えた。小さなカエルの、小さな蠢動がその位置を教えていた。久しぶりの生餌が喉元にたまらない快感だった。なかば恍惚としながら、ユキはそのまま動かなくなった… 眠ってしまったのである。


 さて… この「家族愛」的な「思いやり」は、ヘビの世界ではおそらく世界初の「人間的な出来事」だった。ギンの行動は… ヒトの近くで、ヒトの感情と言葉とを聞きながら育ったことと無縁ではありえない。アオも同様だが、彼は自身の食を得てから甕に戻ったところであり、カエルのお土産こそ持ってはいなかったが、ギンの為したことを見て自身のしたかったことを初めて理解することができたのだ。

 

 ユキにあったのは子を産み守り育てたいという母性であったが、例を挙げるまでのこともなく多くの動物で「母性」を観察することができる。しかし、ヒト以外で「子」が「親」を思いやることを観察できるだろうか?
 ギンはそういう意味で蛇族における感情の創始者であるとも言えよう。もっとも野生の動物にとって、これがシアワセな結果に結びつくかどうか、大いに疑わしい。

 

『…ねる』
子蛇も初めての外の世界にぐったりしていた。
『…ねる』
こうして三匹は眠りについた。

 

 ギンもアオも、初めての外の世界に疲れ切っていて、ちょうど休息が必要だった。腹も満たされていた。深い眠りだった。しかし… 今までとは意味が異なるような、深い深い眠りだった。起きた後にどんなことが起きるのか。そんなことはどうでも良いくらい、それぞれに疲れているのは確かだった。

 それにこの臭くて狭い空間は、三匹にとってはむしろ懐かしいほどの郷愁を帯びるものになっていた。